常栄寺 Joeiji
常栄寺 雪舟庭は大内政弘(おおうちまさひろ)が別邸として建てたもので、庭は雪舟に命じて築庭させたといわれています。
康正元年(1455)、政弘の母、妙喜寺殿宗岡妙正大姉(みょうきじでんそうこうみょうしょうだいし)の菩提を弔(とむら)うために別邸を寺とし「妙喜寺(みょうきじ)」としました。
一方、常栄寺は毛利元就(もとなり)が長男隆元(たかもと)の菩提を弔うために永禄6年(1563)、高僧竺雲彗心(じくうんえしん)を開山として、安芸(広島)吉田の郡山(こおりやま)城内に建てられました。洞春寺(とうしゅんじ)も妙寿寺(みょうじゅじ)も郡山城内に建てられた寺です。
毛利氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に与(くみ)したので、その領国を削られ萩に移封されました。萩への入城準備を控え、まず山口に入り、常栄寺を慶長年間(1596~1615)に国清寺(こくしょうじ)(現在の洞春寺の地にあった寺)に移し合寺しました。洞春寺は萩に移り、毛利隆元の夫人・妙寿寺殿仁英妙寿大姉(みょうじゅじでんえいみょうじゅだいし)の菩提寺「妙寿寺」は妙喜寺に移り、合寺しました。
さらに文久3年(1863)、毛利敬親(たかちか)が本拠を萩から山口に移した時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、常栄寺は現在の地に移り妙寿寺と合寺しました。ちなみに、山号は国清寺の山号「香山(こうざん)」を踏襲し、「常栄寺」は隆元の法名、常栄寺殿花渓常栄大居士(じょうえいじでんかけいじょうえいだいこじ)によります。
大正15年(1926)2月24日付で常栄寺庭園は国の史跡・名勝に指定されましたが、同年5月3日昼、民家の火事による類焼で鐘楼門と宝蔵を残してことごとく焼失しました。創建以来3度目の焼失でした。幸い歩兵第四十二連隊の応援を得て本尊を始めとする諸仏・宝物・文書類は搬出されました。本堂が再建されたのは昭和8年(1933)の事です。さらに諸堂の建立整備は昭和27年(1952)、常栄寺二十世 安田天山(てんざん)老師の晋山(しんざん)(住職就任披露)後のことです。実に復興まで四十数年間を要しました。
常栄寺略歴
- 永禄6年(1563) 広島県吉田・郡山城内に建立
- 慶長年間(1596~1615) 山口市水の上町に移る(国清寺と合寺)
- 文久3年(1863) 山口市宮野下(妙寿寺と合寺)に移り、現在に至る
毘沙門堂 Bishamondou
毘沙門天はインドでは財宝の神で、室町後期頃から七福神のうちの神として親しく信仰されています。後に仏教を守護する神となった阿修羅とはげしい闘争をしたことから、鎌倉時代には武士、大名の間で国を守る神として信仰されるようになりました。現在では、商売繁盛・選挙・スポーツ・受験・就職等の功徳が得られると、盛んに信仰されています。真言は「オン ベイシラ マンダヤ ソワカ」真言を七回唱え祈願をして下さい。
薬師如来堂 Yakushinyoraidou
当薬師如来は山口市仁保の寺院より来られたと伝えられています。しかし大正15年、民家の飛火から類焼の憂き目に遭い薬師如来堂は常栄寺と共に焼失しました。現在の薬師堂は平成9年に再建されたものです。薬師如来に帰依すると病気が治り、寿命が延び災いを除去し、衣服飲食を自由に得られるとされ、「お薬師さん」の愛称で親しまれております。真言は「オン コロコロ センダリ マトウギソワカ」真言を七回唱え祈願をして下さい。
弘法大師堂 Kouboudaishido
平安時代、弘法大師空海は唐(中国)に渡り密教を修め、我が国に真言宗を伝えられました。弘法大師は讃岐万農池の築造、貧困青年の教育機関の創設経営をはじめ、多くの社会事業を手掛けられました。現実生活の幸福を増進することによって、仏教の道を示されたのです。四国八十八箇所のお遍路参りは歩いて一ケ月程かかります。日々の生活の中で弘法大師堂にお参りして功徳を頂いて下さい。真言は「ナム ダイシ ヘンジョウ コンゴウ」真言を七回唱え祈願をして下さい。
雪舟庭 Sesshutei
庭園は本堂の北面にあり、禅味あふれる日本庭園の代表作として、大正 15年に国の史跡・名勝に指定されました。庭園は約 30アール(約 900坪)の広さで東西北の三方が山林、南が開けた土地の中央に池泉を穿うがつ池泉廻遊式庭園(ちせんかいゆう)です。庭園には 3つの重要な視点が置かれています。それぞれの視点からの三景は趣を異にしており、廻遊することにより非常に変化に富んだ景観を観賞することが出来ます。
第一の視点
本堂のある位置です。本堂と池泉の間が芝生の枯山水となっています。北側の山畔には連続した石組を配し谷を掘り石橋を架し廻遊路がめぐり、北東部奥深くには瀧石が組まれ、東側には自然のままを利用した山腹の景となっているのが見え、安定感のある景観です。
第二の視点
西側の竹林と池泉に突き出た出島状の芝生の辺りです。ここからの眺めは、池泉と瀧が正面に来て北側の連続した石組は中景となります。
この瀧は、「黄河上流にある龍門は流れが非常に急で、ここを上り切る事が出来た鯉は龍と化して天に昇る」という中国・後漢書(ごかんじょ)に見える故事を題材に造られました。ちなみに、この故事より「登竜門(とうりゅうもん)」という言葉が生まれました。
龍門式の大滝石組は実に鋭く、激流が何段も岩に砕け下り池泉に落ちる。その前には鯉魚石(りぎょせき)が組まれ、まさに飛び跳ね上がる一瞬の姿を躍動的に表現しています。
この瀧の構成は高い視点から、やや俯瞰的に見るように組まれています。出島状の芝生の辺りの位置に金閣寺や銀閣寺と同様の二層建ての建物があったと推測されています。この二階から俯瞰的に見る位置と同様の高さから見る景観は非常に雄大です。
第三の視点
枯山水東側にある、現在は書院跡となっている部分です。この視点からは池泉と楼閣風二層建ての建物の景観を中心にしていたと思われます。
本堂 Hondou
本尊、千手観音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)は、もともと山口市水の上町(現・洞春寺)にあった国清寺の本尊で、奈良時代から信仰が盛んとなりました。千手観音菩薩は正しくは千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)ともいわれ、それぞれの手に目があります。衆生の救いを求める声(音)を観て(観音)救済します。それぞれの手の持物は種々の衆生救済の方法を持っていることを示しています。千手観音菩薩は衆生を救済する力の強い観音菩薩です。
南溟庭(なんめいてい) Nanmeitei
南溟庭は、常栄寺二十世 安田天山(やすだてんざん)老師が古典造園の復元・修復や創作の大家 重森三玲(しげもりみれい)に「雪舟より良い庭を作られては困る。恥をかくような下手な庭を作ってもらいたい」と依頼。重森は固辞しましたが「上手に下手な庭を作ってもらいたい」と重ねて依頼。昭和43年、重森 72歳のとき築庭したものです。
テーマは雪舟が入明し、帰国するまでに往復した海をイメージしたとされています。石はX字状に配置し有機的な繋がりを持たせた一方、苔(こけ)による築山は方丈側を高くし、端部は洲浜形にして動きを持たせています。高い本堂から立って見るため庭を俯瞰するように作られています。
「南溟」の由来は、安田天山老師が荘子内篇第一「逍遥遊」からとったものです。
「北冥に魚あり、その名を鯤(こん)とす。鯤の大いさ、その幾千里なるを知らず。化して鳥となる。その名を鵬(ほう)となす。鵬の背、その幾千里なるを知らず。怒りて飛ぶ、その翼は天に垂るる雲のごとし。この鳥や、海の運くとき将に南冥に徒らんとす。南冥は天地なり」
現代流布の刊本には北冥・南冥とあるのですが、唐の陸得明(りくとくめい)の「経典釈文(きょうてんしゃくぶん)」に「冥本溟」とあるので古くは「溟」であったことは明かであるので、「南溟」としました。北溟は陰の世界、北の涯(はて)のない暗い海。南溟は陽の世界、果てし無き南の海、彼岸を望む光明の世界です。雪舟は想像を絶する苦難を乗り越え海を渡り、万里の波濤を乗り越えて帰国しました。海は雪舟にとって実に南溟ではなかったのか?静かに坐して観ずる次第です。
前庭「無隠」 Muin
前庭「無隠」は、常栄寺二十二世 今井任桃(いまいにんとう)老師の晋山記念事業として、平成24年に作庭されました。名前の由来は室号の「無隠窟」からとったものです。
地蔵堂 Jizoudou
地蔵菩薩は平安時代から広く信仰されるようになりました。親しく「お地蔵様」「お地蔵さん」と呼ばれています。地蔵菩薩は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道それぞれにあって導かれます。私達には延命・子育て・身代わり・とげぬき等、現世利益をお与えになります。真言は「オン カカカ ビサンマエイソワカ」真言を七回唱え祈願をして下さい。