雪舟について

雪舟 Sesshu

雪舟は室町時代に活動した水墨画家・禅僧です。
岡山県総社市の宝福寺での小僧時代、涙で鼠を描いた逸話で有名です。京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移りました。遣明船に同乗して中国(明)に渡り、約2年間水墨画を学び、画聖と称せられるまでになりました。帰国後、周防、豊後、石見で創作活動を行いましたが、十数年後に再び山口の雲谷庵に落ち着き、数々の水墨画の傑作を描き、87歳で没しました。
現存する作品の大部分は中国風の水墨画(山水画)です。
宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ各地を旅して写生に努め、日本独自の水墨画風を確立しました。現存する作品のうち6点が国宝に指定されるなど、日本の絵画史において別格の高い評価を受けています。
「雪舟」は号、諱(いみな)は「等楊(とうよう)」。

雪舟略歴

西暦(和暦) 歳 雪舟 社会
1420(応永27)1 備中で生まれる
1430(永享2)?12 この頃に京都・相国寺にはいる? (1428年正長の土一揆、1429年播磨の土一揆)
1445(文安2)26 大内政弘が生まれる
1449(宝徳1)30 足利義政が将軍になる
1456(康正2)?37 この頃に山口に来住
1460(寛正1)41 寛正の大飢饉。このころ周文死去
1464(寛正5)45 恵鳳が雲谷庵を訪問 足利義視が義政の養子に
1465(寛正6) この頃、雪舟と号す 大内教弘死去。足利義尚生まれる
1467(応仁1)48 遣明船で、明の寧波に上陸 応仁の乱起る。政弘・軍勢を率いて上京
1468(文明1)49 明に滞在 うちつづく戦乱が地方へもひろがっていく
1469(文明2)50 帰国の途へ
1473(文明5)54 山口で「安世永全像」描く 宗全・勝元死去、義尚が将軍に
1476(文明8)57 豊後の天開図画楼にいる 政弘「君台観左右帳記」贈られる
1477(文明9)58 政弘帰国、応仁の乱終結。大内義興生まれる
1478(文明10)59 政弘が小弐氏を破り、領国の筑前・豊前を奪回
1479(文明11)60 「益田兼堯像」を描く 右大臣三条公敦、山口に下向
1480(文明12)61 宗祇、山口を訪れる
1481(文明13)62 美濃へ、万里集九らと交わる 一条兼良・一休・朝倉孝景死去
1486(文明18)67 山口で「四季山水図」(山水長巻)を描く 〔1485年、山城の国一揆〕
1495(明応4)76 「破墨山水図」を描き、宗淵に与える 新撰菟玖波集ができる。政弘死去
1496(明応5)77 「慧可断臂図」「全岩東純像」を描く 日野富子死去
1500(明応9)81 前将軍義稙、山口に入る。1508年の上洛まで滞在
1506(永正3)?87 雪舟死去 大内義隆生まれる。万里集九「梅花無尽蔵」できる

「山口県の文化財」より引用